寂しい。と思いました。
ぼくは、いま、仕事をしてませんので、だいたい、毎日、人と会いません。家ではブログのためにご本を読み、またコンテンツを考えて書く。それ以外の時間といえば、YouTubeを聞いている……。忙しないいつもです。
ある日、YouTubeを見る専用機となっているタブレットの充電が切れました。だから、アダプターにさしたのです。ぼくのそれは、コードがとても短いです。だからそこから距離を取ると、画像が見にくいです。で、タブレットより離れてお食事をしておりました。なんだか、みぞおちあたりに、重さを感じました。寂しさなのだと思いました。いままで夢中にブログに向かっていて、忘れていた感覚です。ご本や思考や音やらで、自覚しなくてよかったものです。
ぼくは迷った末に、ただ一人のリアルの友人にLINEをしました。しばらく話してもらいました。
けれども、孤独に耐えられないからと、人を当てにしていたら、迷惑な人になる可能性が大きいですよね。
ぼくの経験でしかないですが、多くの人が、支えてくれる人を求めていいるように思います。もちろんそのことには問題はないと思うのだけど、ここに、「自分に都合よく」支え欲しいとなってるのです。そして、満たされずに、怒りや哀しみを意識することになったりします。
寂しさに負けないためにこそ、「多様性」というのを理解してみる。
「多様性」というものを、単純に人それぞれの個性をできる限り認めること、だとして。つまり、人は「自分の望むようには動いてくれないのよ」ということを知っておくということです。そうすればすれ違いで理解されなかったときかなしい気持ちにならなくてすむ。結果的に、相手に幻滅しなくてよくなります。
ぼくは、友人から言われたのですが、君は何か言われたとき、よく、相手から攻撃されたと解釈するよね、と。だから、怖くなってその人との関係を切ろうとしてしまうんじゃない? と。独りよがりすぎる思考でした。つまり、人がぼくに予想外に何かをしたり言ったりのその意味を、「攻撃された」と悪く解釈していたのです。というか、こういう場合は、こちらを攻撃していることだ、という回答をだすある漠然とした式みたいなものを持っているようです。(直し中です)。
多様性を認めますと、お家で一人でいても、見捨てられた感を思わないでよい場合が高く、みぞおちが重くなることも少ないのでは。いえ、ぼくの場合、重たいのですが、生きるのがつらいほどでもないのです。
けっきょく、寂しさは、人から(心理的な)距離があるという思いです。
ふだん送らない人へ意を決してメールを送った後の落ち着かなさです。
その距離に長さを感じなければ、よろしいのではないでしょうか。
それでもみぞおちが重いなら、いちど、眠ってみましょう。これは今後なんどもいうと思います。ぼくは、いろいろな方法を言いますが、それを実践しても、問題が解決しないときは、まずは、とりあえず寝ましょう!!
4月にご紹介した残りのご本です。「忘れられた巨人」へのコンテンツは、あるSNSに投稿していたものの大幅改訂版なのですが、それとは別のご本を紹介するつもりでした。ただ、それを読んでいると、あまり、ぼくのブログの世界観に合わないと思いいたったのです。ある程度は読み進めていまして、時間も経っておりましたので、別のご本を最初から読むということが難しくて、切羽詰まっての転用という形になりました、汗。
今回は以上になります。
若いかたにも大人のかたにも、今日、いま、あなたの青春の時間に参加させていただいたことに感謝いたします。
それでは、また!