アイデンティティとは、縁(よすが)だ。それを失ったとき、どう生きていきますか?(マルカの長い旅 ミリヤム・プレスラー 徳間書店)

10代向け

マルカの長い旅
ミリヤム・プレスラー
松永美穂 訳
徳間書店

人はどこかに「自分である証」をもっています。

それが、よく言われるように高い学歴とか羨まれる社会的地位とか、または、反対に、お金がないとか、人に利用されるとか、そういう(おそらく)マイナスを証として無意識にも持っている人もいます。

マルカは、母親の子であることが、どこか、自分の自分たる証でした。その母親は、医者であること、他の「ゲットーに閉じ込められた」ユダヤ人(ヒトラー占領下の街より話は始まります)みたいに「惨めに生きていないこと」が、証でありました。

マルカは、ひとりぼっちで生きていかなくてはいけなくなり、母親を、自らの証を捨てなければなりませんでした。母親は、その証を、生きるために必要になるはずと、捨てよ、と言われたときに、捨てませんでした。

あらすじ

「ユダヤ人狩り」がある。そういう噂はどこでも流れていた。医師のドクター・マイは、ドイツ人の将校とも渡り合える高いレベルの教養と医師としての立場が、そんなことから守ってくれると思っていました。

けれども彼女は2人の娘を連れて、国外へ逃れなくてはいけなくなります。ユダヤ人であることは、過酷な時代でした。

逃避行の途中で娘の1人、マルカが病気になります。置いていかなくてはならなくなります。安全な街に着いたら、預けた家の旦那さんが、電車でそこの駅まで連れてきてくれると、お金を払ってお願いすることに。子供は目立たないし、マルカはアーリア人みたいな金髪だから、うまくいくだろう……。

しかし、その家にユダヤ人を探すために警察が来るとなったとき、マルカは捨てられます。

どこにいけばいいの? 少女は、たった1人でいくつかの街のゲットー(ユダヤ人を集めた住宅街)を経験していきます。わずか、7歳です。どこかでは、大人がパンをくれた。どこかでは、大人は守ってくれなかった。哀しみが幾度も襲った。家族がいない。住むところがない。お腹が空くことのつらさ。寒いことのつらさ。ドイツ人のユダヤ人に対する暴力。

さまようある日に決意します。お母さんのことは忘れよう、と。甘えがあるからつらいのだと思ったのかもしれない。

そして、マルカは、人びとのやさしいことやひどいことを見て、自分の生き方をどうすればいいのかを考えていきます。

そして、マルカの母親ドクター・マイは、目的地につき、気が狂いそうだった。マルカが行方不明と知ったのです。置いてこなければよかった。けれども険しい山道をいくのに、あの7歳の熱にかかった子を、連れて行けた? もう1人の娘も大切な子だ。でもほんとうは我が身がかわいかった? どうにか頭の中で自分の行為の整合性を保とうとします。けれども、良い答えは出ない。

「探しにいけば」

上の娘、マルカの姉にそう言われて、はじめて、やるべきことに気づきます。それまでたくさんの人のツテを頼ってマルカをとりもどそうとしたけれども、自分でしなくては!!

ゲットーにおいて、食べ物を物乞いした。冬服を盗んだ。卵を失敬した。そんな経験をしなければ生きていけない環境で、マルカは確実に精神が衰弱していきます。いえ、彼女だけではない。そうしなければいけない人たちは他にもおおぜいいました。

そして、いまいるゲットーにドイツ人たちがきたとき、マルカは、逃れるために、列車に乗った。ドイツ人の親子連れに紛れて。

行き着いた先は、新しいゲットーで……。

マルカとドクター・マイは、邂逅できるのでしょうか? 過酷な環境の中で、少女のこころはどうなってしまうのか。

きっと、ラストは胸がキュッとなります。なぜ、ラストで、マルカはそのとき、そんなふうに感じたのか、よく考えてみてほしいと、ぼくは、思いました。

ドクター・マイは自分の証、医師であることを捨てませんでした。つまり医師免許を。それは、結果としてはよいことでした。新しい土地で一時的にもよい働き口を見つけられたのですから。

マルカは母親の記憶を封印したのです。

人には支えが必要です。それは自分のうちから出てくるものがよいです。しかし。

ドクター・マイは社会的にも人間的にも自立した女性であり、自らの価値を自らで勝ち取ったと誇りにしています。マルカを助けるため人を頼りに頼ったけれど、うまくいかなかった。人に頼るのは良くないと思ったのかもしれない。しかし、最終的にはマルカを取り返すためには、ある人を頼らなくてはいけなくなります。不安感を持つマイ。

ただ、この物語は、人の打算のないやさしさが読めます。

マルカもひたすらに頼った。お金もないし働くこともできない少女は、人の慈悲にすがって生きていくしかない。そして、パンをくれる人たちだけでなく、幾人かの人たちは、危険も顧みず、少女を守ったのです。

そして、2人は新しい生きる意味に気づきます。アイデンティティは変わりうる。

ドクター・マイは、マルカを助けに行ったときに言う。娘たちこそ人生なのだと。彼女の証は医者とか、自立とかでなく、子供たちの存在だと気づくのです。

そしてマルカの証は人にやさしくすることになっていました。やさしさに触れたから? 哀しいことが多すぎて人にそんな思いをさせたくないから? おそらくその両方で、ゲットーの病院で、甲斐甲斐しくお世話をする相手などをもったりします。

マイもマルカも、決して清廉潔白な人間ではないし、そんな人間は世界のどこにもいないし、物語でもそれを書けば、嘘と思われるでしょう。ただ、2人とも、極限状態で人情にであったのです。惨めになった人をだいたい人は相手にしません。けれども、助けてくれたのです。それは人に何かを思わせるのだと思います。

語りのミニシアター

これは、ぼくは、感動した!!

もう、泣いた!!

おおう!? 

いきなり、感傷的ね?

そうね、あたしも

いいお話だと思うわよ。

児童書というのは

その名の通り子供向けなのだろうけれども、

大人が読むと、その、

美しい子供の世界に心が洗われます!!

けっして、

きれいごとが書かれているのではないのよね。

社会や人間のひどさもある。

マルカだって、いろいろ憎むし、母親もそう。

 
だけど、この本を読むと、

人にはそれぞれの事情がどうしてもあって、

それでも、

「世界は信頼できる」というメッセージを思ったわ。

 
戦争という無慈悲さは、どうしても、

救えないことではあるとも思うけれどもよ。

そうですね。

ぼく的には、ラストのマルカが。

あれこそ、ぼくは作者のやさしさだと思いました。

 
物語をあの形にするには

書く方はとても勇気が必要だと思います。

ただ、読み手にとっては、

とても大切な気持ちに気づくと思うのです。

読書の幅って、広げてみるべきね。

とてもよい体験だったわ。

ぼくもです!!

少年少女にも読んでほしい!!

いや、そちらが、

この本の本来の対象者よ……。

※「マルカの長い旅」は、児童書という位置付けであります。「10代~」という言葉が帯にあります。

管理人
アリサカ・ユキ

ぼくはずいぶん長い間とても弱かった。勝手な自己主張の上手い人たちに、いろんなやり方でいいように扱われていました。

物語からほんとうの強さというものを知りました。それは、なにかをわかること、そして、それへのやさしい想像力で得ることもできる、ということ。ぼくは卑怯な人に抵抗できるようになった。優しい人の味方になれるようがんばれるようになった。

あなたを翔けさせる素晴らしい物語たちを伝えたいです。

毎週、月曜日の更新を心がけます(変則的になる場合があります)。

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管理人はトランスジェンダーであり、トランスエイジです。

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10代向け対立と和解(対人関係を考える)小説愛と喪失(愛がわからなくなったら)
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